2014年3月28日金曜日

『アナと雪の女王』を見て。

 本当は『ローンサバイバー』を見たかったのだが、レイトショーでやっていないので評判がいい(ディズニーはたいてい評判がいいが)『アナと雪の女王』を見てきた。
大変素晴らしい出来で女子なら大喜びしてしまう内容だし、大変に感心した。

 とはいえ、「まぁ、見なくてもよかったかな」というのもある。
さすがに女子供向けの宿命かと。
が、しかし自分がいま『プリキュア』の劇場版をとてもじゃないが見れないだろうと想像すると、やはり格の違いを感じるか。
『レスキュアーズ・ダウンアンダー』から『リトルマーメイド』『美女と野獣』までの一連のディズニーの劇場アニメには大変驚いたものだけど、さすがにもお腹いっぱい、というか。
とはいうものの、この映画大変なセンスと才能の結集というか蓄積というか、昨日今日でマネできるものじゃぁないかと。
昔ながらのディズニーの伝統を活かしつつ更に進化したとでもいおうか。
この7,8年ほどの日本のオタク界隈からは生まれてこないパワーを感じる。
様々な経験や才能、技術が融合して生み出されているからだと思う。
比べるものじゃないんだけど、日本のアニメはとにかくファッショナブルじゃない。
関わっている人間がファッショナブルじゃないからしょうがないのだが。
いいかげん、戦車や飛行機や銃ばかり見ていないで別の方向を目指したほうがいいかと。
『艦これ』のみっともなさったらない(それが売れるんだからまた悲しい)。

 で、思いついたことを文章でまとめておくことにしたので、あれこれ書いてみる。

 昨今、技術のコモディティ化激しく、自分のわかる範囲で言えば『イラスト』がそれにあたるかと。80年代はマーカーとパステルでリアルな「カンプ」が描けるのがかっこよかったけど、それが今じゃ陳腐だ(笑)
 デジタルペイントの普及で色塗りのハードルがずいぶんと下がったように思う。
こうなってくると、誰もが手軽に高品質なイラストレーションを描くことができるようになってしまうので、イラストレーションに「価値」が無くなってしまうのだ。
手軽に構想を図にするということでは大いに価値があるけど、それで人の心に訴えたりすることの価値が低くなるというか。

 2Dの価値が低くなれば、次は3Dとなるわけで、Zbrushによるフィギュアなどの造形がみるみる広がっていく様は目を見張るものがある。
自分も追いついていきたいものだけど、なかなか…。
唯一、自分と相性の良かったアニメーションマスターの日本での対応が終わっていなければとも思うが。やっぱり1日に8時間くらいツールを使っていないとなかなか手につかないもので。

 さて、進捗だが仕事の忙しさ(というほどでもないのだが)でどうも。
はやりうちの中で何かに集中し続けることの難しさにお手上げ状態だ。

なにかうまい手はないものか…。


2014年3月23日日曜日

約20年前と英語と進捗と。

昔のこと

 『1995年』だとか最近90年代を振り返ることが周囲や自分の中で流行しているような。
果たしてあれから20年前後が経ったが、一体何が変化し、何が変わらなかったのか。
思えば、最近になって「あの頃」アメリカに渡って「名を挙げた」方々をちらほらと見る。
羨ましいような、そうでもないような。
松井博氏や奥山清行、その他CG関連の人たち。
当時(1995年)、日本の特撮界に嫌気をさして「あちら」に渡った人で日米の映画界の差異について本を出されてた方とかいらしたが、名前を失念した。
そのアメリカVFX業界もなかなか厳しいらしいと聞く。
とはいえ、アメリカは続々と新しいVFXツールを開発してくるし、対して日本はほぼ無策。なんら革新的なものを生み出すことができない現状。
技術的(総合的な)な差を感じる。まるで地方から都会を羨望する田舎者の気分だ。
日本の「ものづくり」の決定的な誤解は自分の手に余るのでおいておく。
「手先が器用」じゃダメなんだよ、くらいしか。


英語学習

 放送大学の授業を受講してるのだが中々に面白い。
訳文を解説してもらいながら文章を読むのが楽しい。
とはいえ英語が読めるようになってるか?と言われると「…」とならざるを得ない。
やはり量をこなすことが必要かとは思う。
しかし、思うことがあるのが『英文法AtoZ』を受講していて、結構覚えているもので現在完了だとか過去完了だとか。過去分詞の不規則動詞(だっけ?)もよく覚えていた。
にも関わらず英文解釈ができないのは一体なんなのか。
中学だけでも毎週、2コマか3コマぐらいは授業があったはずだ。年間にして100時間から150時間。
3年間で300時間ほぼ2,3ヶ月(睡眠時間含むw)を英語と共に過ごしたことになる。
これだけ費やして、英文に太刀打ち出来ないのは一体どういうわけか?

 これは間違いなく英語の授業、または教師らの怠慢だと思う。
まず、英文法。必要なのか?これ。
俺たち、日本語話すときに「過去形」とか気にするか?という。
なにか先人の考えた「意味のない枠」にとらわれすぎじゃないのか?
掛け算するときに順番を気にしたり。
思い出すのが中学校のときの小島(和)という呆れた先生がいて提出するレポートの題字の枠の寸法を守らせていた。呆れるよりほかはない。
ま、俺が過ごした中学の数学の先生、先の小島某、浅野某、もう一人田中某、実に無能そうな顔をしていたのを思い出す。おかげで中学の数学は散々だった。
今から考えると数学は中々に面白そうで人生に余裕があるならまた勉強し直したいぐらいだ。
数ⅡBくらいまではいけるはずだと思う。

よく
「うまくいかないのを人のせいにしてはいけない」
というが全くその通りで、なぜならば「奴らは悪いままだから」というのが後ろにつけるを忘れてはいけない。「奴ら」は反省もせず、涙も流さず、いつもどおり「悪いまま」飯を食い、電車にのるからだ。
「だから」
「自分を変えるしか無い」のである。
おっと話がずれた。
で、話は戻るが英語だ。
実はこれに関しては自分の中学の三橋某という教師が割りといいことを当時言っていた。
「授業時間を長くするよりも毎日短い時間でいいから英語に触れさしてくれ」
と。ま、わかってる人はいたのだ。
とはいえ、できない自分が代案を考える事ができるはずもないのだが、ただひとつ言える事は「興味」につきるだろう。
人間は多かれ少なかれ文字から情報を得ているのだから、興味のあることであれば難解な事柄でも障壁を越えて理解へ至るはずだ。
特に他の科目と違って英語は「日用品」である。
であれば、一人ひとり興味の向かう方向へ英語を沿わせていくしかないのじゃないか。
かなり大変なことではあるが。

 で、ようやく自分の話に戻るが去年、放送大学の『実践英語』と『英語圏の言語と文化』をとって今年初めに単位認定試験を受けたところ、『実践英語』がDで不合格だった。
ところが『英語圏の言語と文化』はCでなんとか合格。
ろくすっぽ勉強していなかったのに大したものだと思った。
不合格だった『実践英語』は試験問題は大して難しくなかったような気がしたものの、やはり覚えていなかったらしい(問題は簡単で英単語力を問うぐらいのもの、だと思う)。

ここに、ポイントがある。
実際の授業の難易度は明らかに『英語圏の言語と文化』のほうが高いのにそちらはなんとか合格したのは、なにより授業で取り扱う「ポストコロニアリズム」に関する書物があまりに興味深かったからだ。
ゼイディー・スミスやJ・M・クッツェー、ハ・ジン、その他。
まったく知らない世界を知った。
やる気のおきないのを無理してネット配信を教科書を開いて聞いてて思わず唸ったのを覚えている。

 それに比べて『実践英語』は昔からの名画のワンシーンの会話で英会話を勉強しようというもの。最初はこちらが面白そうだ、と思っていたのだが、案外につまらなくてびっくりした。
『カサブランカ』や『レベッカ』などなどいずれも好きなクラシック映画だったのだが、おそらくよく知っている世界だったからこそ、興味がわかなかったのかもしれない。
如実に試験結果に現れたのが面白い。

 試験は面白いもので、自分でそれなりに歯ごたえを感じて「やった」という感触があるとたとえ良い成績でなくても試験後の気分が爽快で、簡単そうで「こんなんだよな」などと適当にやると試験後の感触が極めて悪い。で、実際不合格だったのだから笑う。

 やはり、興味なのだ。
それがなければ何事も始まらないと言っても過言じゃないだろう。
興味が無いのに、大人たちがつくった規格に沿って勉強をして良い点をとった奴がイノベーションとかできるわけがない。この一点に尽きると思う。

進捗

ダメだねぇ。ようやくメタセコイアをインストールしたぐらい。去年の6月にあっというまに3Dデータを作って試験的に3Dプリントに発注したというのに。この体たらく。
やはり環境が整わないとダメか、という。

長くなったのでこれまで。

2014年3月18日火曜日

相変わらずの日々。

季節的に仕事がたてこんでしんどいのだが、数年前はもっと稼いでいたので身体が弱ったのかとか。

にしても、日々が相変わらず無為に過ぎていくのが辛いというほどでもないが、今日でいよいよ通っていた学校から離れて完全に1年がたつ。歯科技工士を片手間にやって小銭が稼げたら、という道は潰えたのは、まぁ、構わないのだが(片手間以上に手間をかける気は無い)かと言って、何か事が進んでるかというとそうでもないところが。

以前もこんな状態があったなぁ~、とじっとりと冷や汗が出てこなくもない。

どうもこう懸案事項が多いと映画を見るきにもならないのだが先日リメイク版の「ロボコップ」は実に良く出来ていた。なるほど、これならリメイクする意味があるというもので、実に現代的なテーマをうまく取り込んでおり絵空事でない現実を突きつけられる。

読んだ本は『ヤンキー経済』最近の地元に生きる若者像。
自分はこれの先駆だったね。考えてみれば。
天下国家を論ずる人からすると、いろいろまずいのだろうけど、そんなの若者の責任じゃないよなぁ?

さて、話を自分に戻そう。
「やりたい事」が確実にあるので、それに向けて行動を起こしたいのだが、果たしてどこから手をつけたらいいのか。(何をやるかは書かない)

先日もだらだらと書いていたが、
やはり、
1、CGツールで3Dモデリング
2,鋳造環境をどうするか

この2点か。
プログラミングの勉強もしたいが、去年のように焦点が定まらずなにもつくりあげられないだろう。ここはしばらく我慢か。

鋳造環境はなにかと金銭がかかりそうなので、現在できることといえば3Dプリンティング用のモデリングだけか。

ふむ、なんとなく方向性がしぼれてきたかもしれない。

もうちょっとかも。

今夜はここまで。

2014年3月13日木曜日

ツイッターを振り返って

う~ん、大したことをつぶやいていないな(いつもどおり)。
ところで元ソニーの辻野氏、ツイッターの対応はカッコ悪かった。
http://blogos.com/outline/82168/
いくらでも笑えるけど、そんなことをしてる場合じゃないので。

とにかく日々があっけなく無為に過ぎていくのが大変に困っている。
それでも去年まではなんとか机にかじりついて何事かしようとしていたのだが、増税前だのXPサポート終了などで忙しく日々なんやかんやの雑用にまぎれてその時間を作り出すことが出来ない。
また今年に入ってから青色確定申告で大きくつまずいた。
青色申告会などに入会したものの担当の方とどうも相性が悪くて行くのが億劫になってしまった。しかしあいつらの「おまえみたいな奴がなんで青色申告すんの?」という目線もしんどい。
これはどこかで言ってやりたいが、その人たちもおそらくは派遣の方々なので目くそ鼻くそか。

そうだ、自分のツイートで多いのが捨て猫、殺処分を待つペットたちのツイートだ。
これは本当にどうにかして欲しい事実。
殺処分のお金に自分の税金は一切回してほしくないな。ま、えばるほど収めてないけど。
イルカ、捕鯨、食肉のための屠殺。
見ないで考えないようにしていたことがインターネットのあるなしにかかわらず、どんどん可視化されてきている。人間の生活に潜む残酷さは耐え難い。伝統だろうが「命をいただく」だか知らないが、残酷は残酷なのだ。代替で済むならさっさとやめて欲しい。原発と同じだ。

ちなみに「伝統の」と何かが言い出したとき、その「モノ」には価値が無くなった事を意味するのだそうだ。明治のころに出来た単語だそうで。
たとえば漆器は樹脂製品が発達して安価に買えるようになった現在は無価値だ。
微々たる長所を売り込んで「伝統」といいつのり、人々に訴える。
「伝統」とはそういうものだと。

話がそれるが原発が廃止出来ない理由は簡単で「それで金をかせぐ地方の人々がいるから」にほかならない。ペットの殺処分が減らない決定的な理由は「ペットを売って稼ぐ人」がいるから。
細かいデータは知らないが、ちょっと考えればわかるだろう。
朝日新聞も「ペット業界に配慮して」という文言でペットに関する記事を書いている。明らかにロビー活動をしている人々がいるのだ。ペット商売を続けたい人たちが。
結論は言わないが、そういうことだ。

さて、机に向かう時間をどう捻出するか。
未だ思いつかない。このままだらだらと生き続けて死ぬかもしれぬ。
今日はここまで。

2014年3月9日日曜日

展望というか。

どうも愚痴ばかり書いてしまったので「これから」の事を書いていこう。
とはいえ学校を卒業して1年が経つわけだが、さっぱり何も展開しないのでちょっとつらいところではある。やはり、「動き」が無いと人間だめだなーと。
家にこもってウンウン考えこんでいても、事が運ばないな。

などと言ってはいても、やはり家で動きを起こすしかないのが現実。
どこかの工房を借りたりしたいところだけど先立つものが無い。

今ここでパソコンの置いてある机でいろいろ事を行ってきたのだけど家の中で場所を変えたらどうだろう?と思って先日台所の模様替えをしてみたのだが、効き目は出ていない。
どうしてもパソコンに向かってツイッターやらなんやらをしてしまう。

人間ってのは不思議なもので自分の問題を棚に上げて天下国家を論じてみたり、他人のいらぬ心配をさも得意げにしてみたりする。
そんなヒマがあれば英単語の一つを覚えたり腕立て伏せの10回でもやったほうがよっぽど幸せになれるはずだ。

そもそもが「目指す場所」が分散してしまっていて、あっちを手を付けたりこっちを手をつけたりで方向性が定まらない。
おのおのの勉強は無駄とまでは言えないが、「なにかプロダクトの完成」ということにまったくつながっていないのが辛い。

実はこうやってブログを書いてはいるのだが「何を」完成させたがっているのかはここにおおっぴらに書きたく無いというのもあって持って回った表現ばかりになるが、読者も大していないようなのでかまわないことにするか。

去年から手にかけてきたこと。

1、関節の作成→精密造形なので3Dプリンタを使いたい→鋳造原型に。
  ※そもそも鋳造で作成する必要はありか?
  ※レジンで作る際、型取りなどはどうなるか、ワックス原型で精密なものが作れるか?
  ※3Dプリンタで原型を作る際のCGツールいじるとか。

実はアクセサリーフィギュアを作ってみたいこともあって鋳造はやってみたいところなのだが、酸素ボンベやら鋳造器やらで10万ほどかかってしまいそうなところが痛い。
そんなこんなで止まってる。

2,C言語の勉強。これも「苦C」をかなり勉強したこともあってなかなか良かったのだが、しかしすぐに役立つツールとも言えない。考えていることもあるが。

3,英語の勉強。これは続けている。放送大学や英単語の本など、かなり効いてきていると思う。唯一順調といえるかも。とはいえこれもプロダクトの完成には直接関係ない物件。

とここまで書いてきて、なんとなく見えてきたことがあったようだ。
1の関節の作成の作業を詰めていけばもうちょっと有効な展開が望めそうか…な。
今夜はここまでにしておこう。

2014年3月7日金曜日

日々雑感2

うーん、日本のニュープロダクトが育たない件について自分の来し方を照らしながら書こうと思ったがさすがに手に余った。

あちこちで読むブログや記事にいらだちを覚えるものの、果たしてじゃぁ自分がどうするのか?と言われると無案では無いものの、ちょっと口ごもってしまう。

かれこれ90年代をクリエーターのかなり端っこで過ごしたことがあるのだが
「そりゃ、そうなるよな!」
と日本の現況を見て思う。
どんなに新しいアイデアを出しても、また目に見えない努力をしてみてもさっぱり報われないのだ。
自分(ら)の無能さにも原因はあるとは思うものの、ガラケーやiPhoneのマネっこ携帯を見るにつけ「ダメだこりゃ」と失笑せざるをえない。

結局10年ほど、あれやこれや、やってみたものの、まったく思うような状況になってくれないので2000年代を失意のままにすごしてしまった。
失意にしずんでるのは自分だけかと思ったら、日本中がみんな失意に沈んでいるのだから、どうしようもない。
結局、自分らが若かったころに提出したアイデアや努力に目上の人間たちが報いなかったことが原因じゃないか。言うことは聞くが、果てしなく凡庸で日々をなんの考えもなく過ごす人間を重用してきたことが原因だ。

とはいえ、今の日本は老人たちの国だ。
若者はブラック企業などという単語が表す通り安くこき使われ、将来になんの見通しもない。
お金がなければ時間もできない時間がなければ新しいこともできまい。
無知蒙昧なまま結婚して子供をつくり、そして今度はその子供のために目先のつまらない仕事に日々の時間を吸い取られていくのが現状だ。

どんなに新しい才能があっても時間や空間がなければ活躍できない。
時間や空間を有するにはお金がいる。

そのお金が無いのだ。

どうもなるわけがない。